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時には無理してでも押し進めたくなる
さまざまなモノを切り捨てでも、どこかに行きたくなるのは青い証拠なのだろうか。 周りの仲間や、友達、家族、恋人、先輩、後輩、兄弟、をみていても、自分をふと振り返ってみても、最初からすんなりと都合良く出来てる奴なんていない。人は理想を描く、 それがどんなに現実離れでも、はたまた現実的であっても、人は未来を考える。考えることが出来る。時にはその理想に食いつぶされて、その夢をみるのを辞めることもあるだろう。そんな時に世界の広さに助けられる。人が幸せを感じることには些細な事で十分なのだと分かる。夢、欲、人、世。まだ、言葉でも頭だけでも理解できてない、分からないことがある。生きてるうちは分からないことだろう。悟りを開こうとした人達はそれを知りたくて生き仏になったんだろうな。それがもはや体現してるんだけど、やっぱりその姿をみて分かることじゃない。今の一瞬一瞬の間本当に刹那の刹那の刹那の間に気配を感じることは出来るけど対面出来ない『?』がある。あんまり考えすぎると、それこそ、この世を切り捨てても知りたいことになりそうだな。もっと手前の現象を信じて、確かな手応えを増やしたいと、今は思う。
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懐を深く
もともと日記なんてのは三日坊主で終わってしまっていたので、ブログも同様にそんなに毎日更新なんていうのは出来ないだろうと思ってたけど、案の定とびに飛んで、いったいいつの事から書けば良い事やら考えてる時間のほうが長くなってしまいそうだったので、衝動でかいてみる。日記にしろブログにしろ、間違い無くそれは能動的に考えたことや、自分から発せられる言葉だったりを一度整理するには丁度良くて、それがそのまま自分の知的財産のようになり得るうえに、他人にそれを見てもらうことで一種コミュニケーションが出来るのはとても有意義だとも思う。でも例えば自分が毎日更新しようと思った時に、どうしても適当な言葉とか、ぱっとでのアイデア、よくよく考えればそうでは無い事を平気で書いてしまいそうで嫌だし、また、その自分のものでは無いかもしれない、言葉や考えに縛られてしまいそうで怖い。まだ、23歳で言い切れることはとても少ないと感じて。体験、体感、肌で感じて初めて自分の言葉なり考えが生まれるべきであるのに、今の世の中何かに対しての感情も物事とセットになって転がってる、それはバリューセット並にお得で、コンビニのように生活の近くにある。その中には運よく、流行に流されてしまったもの、また不運にもその流行と一緒にされてしまったものもあったりする。先人の知恵に学ぶべきことも沢山ある。しかし、自分の人生、自分の嗅覚や視覚、自分の感性を頼りに判断してきたことをなるべき増やしたい。只のコピペならcomand+cとvで出来るけど、そこに自らの判断、感性、匂いをつけていかなければ、どこに生きてる証を残せるのだろうか。 クソッタレ。
 
ブ ル ー ス & S E X
昨日、今日と立て続けに偉大な表現者二人のドキュメンタリーを見た。 ここで言い切れる程の言葉を持ってないし、言い切る必要性も感じないが、その二本を見て自分の胸にボンヤリと刻み込まれた何かを色あせる前につたえたい。今まで彼らの作品は常々好んで見て、聞いてきて、それぞれに思っていたことが揺るぎない自分の思いになった。

一本目の被写体は「世の中にひとつでも曲が残れば良いと思って歌を歌い続けています」と言っていた。彼は同じ曲を、それも他愛もない様な曲を死ぬまで歌い続けていた。日々の中の希望や、ちょっとした事をやりきれない気持ちをギターにのせて歌っている、さらりと素敵だなと思わせてくれる。
懐かしむ暇も無い日常に、色を添えてくれる、ブルースとはこういう事なのだなと感じ、一緒に生きている事を教えることなのだなと。

二本目の被写体は映画の最後にDJ Klashの幻想的だがBeatの聞いた曲のなか「人生はSEXだな!」と言っていた。それは下品で安易な言葉の用だが、自分の胸の深く深くに突き刺さった。彼のライフワークは写真を撮る事なのだが、撮るものと撮られるものの関係はまさにSEXのような緊張感でもってぶつかりあわなければ良い写真は撮れないのだろう。彼のとる写真の中で女は色気を存分に臭わせ見る者を釘付けにする。男はずるく、弱い、しかし、女をつややかに見せることが出来るのは男なのだと、そのような事を彼は言っているようだった。
 

七草も過ぎて2月もなかば
正月も過ぎてしまえば、なんのことは無い日だったのだなと思う。 年越し自体は、まれにみる素晴らしい年越しを迎えられてよかった。 ダニー井野さんの歌声と、美味しい羊の肉とビールの3つがあわさり、正月を迎えるのにふさわしい心持ちとなった。 おくればせながら、皆様あけましておめでとうございます。 年末からこの何ヶ月かのうちに人生で初めての経験を幾つかし、それこそ、このblogにもかかなければいけない筈なのだが、気が向いたら、おって書く事にします。 それと共に、このblog自体のデザインも変えたいと思っていますので、そのうちに、、

年をとるにつれ、自分は、考える事と実際とのギャップの中で生きているのだろうと 痛切に思わされる。どちらもの歩みよりをしつつ、理想は高くしていきたい、そんな2009年2月の19日、今日は七時から
サイさんの展示に行くので、それまで教習所で学科&技能教習を受ける事にする。


 
年をまたぐ
2008年は要所々々で、偉大な人に出会い、これからの人生に間違い無く関係してくるだろう話、出来事、感動等 これから生きていく上での要になるような大事な経験をした。しかしなぜだか、一年自体を振り返ると記憶が薄い。
2009年になろうとする19時間前。
1月31日午前五時、やっとスイッチが入ったような感覚を感じる、それは体の隅々に血液が流れていくような、神経が開発されるような、そんな感覚。 年終わり、また年初めを迎えようとする気持ちがそうさせたのか、悪くないとてもいい感じだ。
 
ぼんやりと歩きながら考えた
月が綺麗にあがっている冬空は考え事をするには、この上ない風景だ。煙草の煙も、その先に灯る火も、冷たい風を見えるよう代演してくれる。
 
 

傘



あぁこんなに気持ちよく寝たのはいつぶりだろうか、軽く1年半ぶりくらいだろう。神経が尖らずに眠り、眠っていたことさえも忘れたように自然に起きた。 夢を沢山みた。頭が凄く整理されたようだ。外は晴れ、空気は澄んでいる。光がとても綺麗に見える。 そんな11時。傘はもういらない。
 
花を買った。
今日花を買った。 清潔な香りと雰囲気を大きな花びらから広げてくれる、百合の花を買った。 一人暮らしを始めた頃は鉢植えに何かしらの植物を植えていたが、去年の冬あたりにはもうその習慣は完全に無くなっていた。一ヶ月前くらいに母が送ってくれた花に触発されて、今日花を買った。 凄く綺麗だ。
 
その時々、雨、太陽、雨、夢
何かが無くなって、湿っぽさを味わえるようになったのか、気持ちが単に澄んでいないのか、夢にのまれているのか、 とりとめの無く、下らないことばかりうかんでくる、 毎日晴れってわけにはいかないのに、あえて日が出ているフリをするべきじゃないと十年前に学んだ。雨の時を楽しむんだよ。心はくすんじゃいない。それが確かなこと。。そろそろ起きねば、そしてやらねば。

 


戒め

『夢をみつめて。 現実である目の前の事から目を背け。 分かる事をさがして 知識を広げる。行動よりも言葉を信じる。知る事を拒み 知らない事を受け入れ群れる。 」 いつ書いたか、こんな事を書いていた。過去の自分の心情は思いだせないが、自分への戒めだと言う事は今でも分かる。成長等とは真反対に位置する心をもった時にこの言葉が当てはまる。


ほんとうは


小さなこと、本当は夢では無かった。
嘘をついた。
誰かが死んだなら、俺も死んでいた。
夜中に独りで酒を飲んでいる。
明日も晴れそうだ。
今日、日本でとても有名なアートディレクターが死んだ話を聞いた。
その人がすごくすきだったらもっと悲しかっただろう。
もしもっと近くにいたなら、もっともっと悲しかっただろう。

 



わからない

光どうして光っているのか、なにが光っているのか。
深い海のそこに沈んでしまえば何が光っているのかなんてのはどうでもよくなる。
とにかくそこに届きたくて、なにがあるのかわからないけど、光を求めた。
鮫がいようと、波が強かろうが、とにかく死ぬ前に光そのものをみたくて。

光がまんべんなく照らす場所では、俺らは何を求めていいのだろうか、
もはや光を求める必要は無い。己とは何なのかを探すのだ、
まるで己の価値観をふるいにかけるように選別してゆく、そして感覚を研ぎ澄ませ、
個体で生き抜いてゆく事を習得する。必要以上に群れる事を嫌い。
自分を見つけようとしてしまったために、言葉を無くし。
体から滴り落ちる血液にさえ見て見ぬふりが出来るようになってしまった。
それはもはや己であるのだろうか?
もはや心ここにあらず。場を無視し、夢を見続けてしまいすぎた。
心をとりかえす為の時間を過ごし、人生はおわるのだろうか。
その間に少しでも己の子を産み落とす事が出来るならば、
俺は次の時間にも存在することが出来るかもしれない。
まるで堅く絞った雑巾から、更に余水を絞り出すかのごとく、俺は必死になる。
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