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b l o g
少しレイアウトを変えて、Top画像も組み直しました。 Sと2の横にいるのは b l o g という文字を顔にしたものです。 文化庁メディア芸術祭で中村勇吾がフォントで顔を作っていましたが、自分はそれよりも前に大日本タイポ組合の作ったダダに衝撃を受けて 真似して勘亭流で自分の名前を顔にして遊んでたのです。外付けに入ってるデータを掘り出したらそのうちのせます。何を言いたいかと言うと、只パクってるわけじゃないんです。、、、と言いたかったのですが、、そんなパクったパクって無いの問題になるようなクオリティでは無いなと書きながら落ち着いてきてしまいました。そんなことで結局内容が無くなってしまいましたが、以上のリンクを見て楽しんで頂ければ幸いです。
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がんばってこう。
まずいな、ホントに、、なんかちょっと今週中はこんなテンションでいきそうだ。
 
この、ちきしょうやろう
なんとかして使える人間になりたく、やっているのに、そんな向上心は持たずに自由を叫んでいやがる。何故だ。ちきしょう。そんなのさらけだされちゃ、こっちが困る。あーちきしょうちきしょー困ってる自分に対してもちきしょうだ。こんな事かいても分かるフリされてしまう。ちきしょー、こんな想いをこれ以上色濃くすることはしないけれども、反動で違う方向に持っていこうと思う。知ったフリされてしまうのはこんなにも怖いか、、なんてこった。自分もやってしまっているかもしれないし、きおつけよう、自分は所詮この程度なんだ。もっと勘を鋭くしていこうと考える。
 
 シ ツ
今は今でしか無い。明日はくるけど、それは今日の延長線上に乗っかってる明日でしか無い。横を見渡せは掌握出来そうなものが転がっているけど、世界はさらに四方八方に広がっていやがる。ロッククライミングのようにしくったら真っ逆さまなルートもある。その時の緊張感は常に持っていたい。ちょっとした石っころにつまづいて、大怪我する可能性だってあるみたいだ。本格的な山登りなんてした事無いけど、自分が登ろうとしている山がどの位のものなのか把握しておく必要があることを知った。予想して何を装備するか?どう登るか?そこんところに登る人のスタイルが出て面白い部分なのも知った。そこが恐らく本当の哲学が生まれるところなのだ、完全に安全で全てが確証的になったものを撫でていくんじゃ、温くて、つまんない、だからと言って無鉄砲に飛び込むんじゃ感動をなにも得ずに終わる事がある。今自分が判断できることを咀嚼して、後はなるべく良い匂いのする方向に向かっていけたら良いなと思う。
振り子の玉が静止している状態が人として"一本筋"が通ったこととするなら、それまでの振り幅によって感性は決まるんだろうな。軸となる支点をぶらすことじゃなく、振り幅を増やす事が今の自分には重要な気がする。もしかしたら、一本筋どころじゃなく、振れに振れて振り子で円が描けてしまえる位の勢いでブンブンと振っていこう。
そして軸がどこにあるのか確認しつつしっかりと固定しなければ。
振れる振り子も振れなくなっちまう。
確実に変えない思いを抱いて、人に届けたい。

 
日々新しく
日々新しい感覚が自分の中で芽生えていく。
自分の予想を超えた出来事がある。
人、音楽、芸術、太陽と出会える日常を続けていたい。
自分の居場所を見つけようとしている。日々鍛錬。
その生活の中でたゆたう思いが日々募ってできている今。
今に至るまでの発見と感動は間違い無く自分のものなのだ。
信じるはその心なり。

へたくそな言葉と思いが右脳から左脳にかけて横這いになっているのがムカつくぜ。ちぇっ
 

想像の壁を飛び越えて自由を手にする
 
まただ。
嫌な言葉がグルグルと回る、なるべく今考えている事とは違う方向にもっていきたい。それとなく気づいてくれれば一番良いけど、どうも、そうもいかなそうだ。シャラクセェッ。こっちが決断しねーとな。こんな事ばっかだ。川の流れのように流れていきたいのに、「スゥーー」と流れていきたいのに、その流れを止めやがる。誰かがいけない訳じゃない、けどっ。わきまえて欲しいだけなんだ。自分のスタートラインの場所を分かってから始めてるんだ、俺は。それをわきまえて欲しい。
 
コントロール、アンコントロール
なかなか節度ある生活が出来ない。小さい頃から、昼夜逆転しがちで不眠症の節もある。どうも寝る前に今日やり残したことを考えはじめてしまう。毎日やり残す事無く計画的に生活すれば問題無いのだろうけど、どうも物事が計画的に進みすぎると気持ち悪くなって、全然違うことを考え始めたくなってしまう。それがサボりになるか、良い遊びになるかは結果が出てからしか分からないのだが。だいたいが後々困るような遊びになって、つまりはサボりの方に傾いてしまう。自分のなかのとても弱い部分をさらけ出すならば、アンコントロールが知らぬうちに繋がって、プヨプヨのように連鎖がうまくいけば良いなー、ラッキーでなんとかなんねーかな、とか考えてしまう。決して真っ当なモノの考え方じゃないことは分かってるけど、コントロール出来る事なんてそんなに無い事をこの23年生きてきて身に染みている。こんな思いを抱くには、それなりに自分のなかでの失敗を打開しようとした結果なのだ。まあ本当に稀に全く欲なく生きている人はいるけれど、自分の中には全てをコントロールしたい欲望がある。しかしそんな独裁者的な思い、偏屈な思いは、予期せぬ終了にみるように、自分が全く考えてなかったとこから攻められるとショックはでかくて、それによって更に卑屈になったり、他人のせいにしたりしてしまう。今までせっかく積み上げてきたものもガタガタと崩れて、そのまま自分の表面だけでなく存在価値のような深いところまできて、自分自身のコントロールも出来なくなる。そんな事を何度も繰り返していくうちに、それなら全てを自分では無く周りにゆだねてみれば何か分かるのじゃないだろうかと気づいた。それは全くの無欲状態で、無気力になることだったのだが、それはそれでなかなかキツかった。極端な事しか想い浮かばず、こんな事をしなくとも上手に生きていけなきゃいけないのになー、自分は駄目だ。とか何か理想を描いては、現実とのギャップに苦しむばかりで、何も、出来ずに毎日を過ごして。しかしそんなふうに精神状態を極端に揺らすことで自分の気持ち良いこと、悪い事が分かってきた、それは自分のやりたい事、やりたく無い事でもあるし、最小限の存在していたい場所を見つけられた気がした。存在していたい場所っていうのは比喩で、もっと正しく言い換えれば、何者にも譲れないこと、つまり自分が自分の中に存在価値を見つけられることであって、すなわちそれだけは誰にも負けたくないと思える事が見つかったのである。その自分の勝負所が明確になったとき、とてもシンプルに自分の周り、社会、自分自身のことが見えるようになって、自分の小ささもハッキリした。あーなんにも出来てねーじゃん。むしろ何にも考えられてねーじゃん、てな具合にかなり自身を客観的に見れることができて、今まさに、それを打開すべく日々精進してる訳だけど。コントロールもアンコトロールも特に重要じゃなくて、知識すらもそんなに重要では無くて、今どうなのか?結局は今でしか、人は語るべきじゃないんだろうなと、昔はどうだった、こうだった、なんて下らなくて、何にも面白く無い。そんなのは自分で喋るべきでは無い事で、人と接する時に何年、何十年、と生きてきたのだから、それはそれなりに過去があって、今がある、と計らずとも考えの中にいれておくべきなのだ。その上で今の話をしていきたいと、常々思ってしまう。

 

遅刻する事象
アンドレ・ブルトンだったか、誰かは忘れたが一昨年とっていた写真の授業のなかで聞いた事が忘れられない。「写真をみるということは、実際の事象を遅延して見る事が出来、写真に収められた風景も人物も過去のものであり、それを再び見る事は例えその事象の中で第三者では無くても、その時、その瞬間を客観的に見る機会を与えてくれる」詳細は違うかもしれないけど、この様なことを聞かされて、なるほどと思ったのを覚えている。人間関係のなかでも「時間が解決してくれるだろう」と言うふうにその時をやり過ごす事があるけど、それは人の忘れっぽさに託した考えとも言えるけど、時がたつと、自分のことさえも人は客観的に考えることが出来るようになる。それが良いときも悪いときもあるだろうけど、とりあえず人間てのはそゆふうに出来ているみたいだ。どんなに嫌いだった奴でも時が経てば、なんで嫌いになったのかさえも忘れちまう。そんな曖昧な感じが良い方向に向いた時とても不思議な気持ちになる。思い返せばそおいえばそんな事考えてたなと。こんなこと書いてても、もうすでになんか不思議な良い風が自分のなかで吹いている。
 
確認事項(自分向け)
新しく何かを生み出したい欲求ってのは、誰しもあるはず。それは俺は俺なんだって、俺以外の誰でも無いんだってことを認識してもらいたいからこそなんだろうけど。そんな時、なんか誰も考えられないような事を考えられる自分がいると信じてアイデアをこねくりまわして、あっちいったりこっちいったりするけど。でも何かどこか、誰かっぽくなっちゃたり、何か足らなかったりする。そんな時は既に揃ってる事を整理する事も重要で、以外とその中にオリジナルに成り得る要素があったりする。全く突拍子も無い事も、守り的なことも平行してやっていって、そのうちに自分自身みたいなモノが確立出来てくる。あっ、ちょっと守り過ぎたな。あっなんか手に負えなく終わっちまった、とか、そんな感じで自分が出せる最大限の事を出すと以外にもすごく目新しいものが生まれたりする。歴史をみる事も大事だけど、自分自身を見つめることのほうがもっと大事な気もする。自分の居場所を知ってれば、それ以外は見なくても良くなるから本当に動きやすくもなるし自分の道ってのが分かって、あとは直進するだけだって感じになる。シンプルになる。その直線を選んだ時点でどこまで直進していけるか、以外と自分が積んでるエンジンはトルク重視だったとか、早さ重視だったとか、直進してみて初めてわかる。そうか、じゃあもっとこうすりゃあエンジン効率よくなるんだってのが分かる。そんなの気にせず進める人は進むかもしれないけど、やっぱりそれは無理をしてることになったりする。何のエンジン積んでるか分からないわけだから、メンテナンスも出来ないわけで、その反動は凄くでかくなるだろう。あんまりメンテナンスばかりしてても周回遅れになってしまうからぶっぱなせる時にぶっぱなせねば。それも身の丈にあった形でやっていけたらベストなんだろう。
以上自分への確認
 
 
オ イ 見下ろす 光
 
やべえやべえ
調子のって昨日三つも記事を書いてしまったせいか、今日は起きたら夕方6時だった。10時に引っ越しの契約をしに行き12時から井手君と多摩美の卒制がてら話合だったのに全てすっぽかした。やべえやべえ。話飛んで、もう春で2年前の今日は何してたかと言うと、芸大の結果発表を見て、浪人をした3年間のことを思い返してちょうど、この11時頃なんて言うのはお世話になった先生方に泣きながらお礼を言って新宿の街を歩いていた。その時から早二年今年で大学も3年生になる。貯めに貯めた思いを少しづつだが表現してっている。只の生活では得られない満足感が、クリエイティブなことをした時にはある。それはそんなに凄い事では無くても、何かを企んで、それがうまくいった時の達成感となって感じられる。その達成感を得るためには、常に今よりも先を見据えて動かなければいけない。そのいわゆる仕掛けを組んでいく時がなかなかくせ者で、とても難しい。そこで味わえる楽しさもあり、簡単なニュワンスで言えばワクワクがあるのだけど、それを他人と共有するとなると、とても難しく、恐らくクリエイティブと言われるものをするときに一番の肝となることだ。只の生活においても、二人のひとがいて全く同じ方向を向く事は難しく、それがクリエイティブなことしようといた時に、着地点のズレとなってくる、ワクワクの着地点が違うと、とても話にはならない。自分が合わせてしまうことも出来るけど、やはりそれでは満足出来ないことが多々ある。人同士のぶつかり合であって、自分の想像では着地点があまりにも突拍子も無いところを言われると興ざめしちゃって、こいつ大丈夫かな?とも思うし、自分に冒険が足らないのかなとも思う時もある。でも思い起こせば、自分にも冒険しようかなと思う時はあって、ゆくゆく考えていくうちに、やはり今は違うなと、それは後に何にもならない冒険になってしまうな、と分かってしまう。それは今まで何かを作り上げる練習をしてきたから言えることであって、何事にも階段があり、手先で出来ちゃうことでは無いこと、人と対峙する時にも言えるのだろうけど、自分自身でもって作っていかなければ、到底良いモノなんて言うのは出来ないと考えている。言葉では簡単に言えてしまうけど、これを体現するってのはなかなか大変だ。人間性みたいなのがかかってくる、自分ももっと体ごとぶつかる事をしていかなければなと思う。
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